東京台東区浅草での木版画の買取でした。平塚運一の木版画[夏のおどり]

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平塚運一の木版画

秋に出会った夏の踊り

雷門の大提灯を横目に、かなり年季の入った煉瓦造りのマンションの4階に呼ばれました。

矢張り、年季の入った、程よい白髪に、角刈りの似合うお兄様。

版画とリトグラフが有るからと呼ばれました。

以前やられていた喫茶店の壁に飾られていたそうです。

平塚運一の木版画

見ると、平塚運一の木版画が5、6点。後は一時流行った、軽いリトグラフが、7、8点。

木版画の一枚が何となく気に入り、満足して頂けるお値段で譲って頂きました。

生憎近くにはコインパーキングも見つからず、ハザードを点けたままの必死の買取でした。焦るとよく、ガラスを割ったりします。

その中の一枚の平塚運一の木版画がこれです。

赤の色の綺麗さと、ショーガールの太ももに往時の浅草国際劇場の面影が重なって、何と無く懐かしさを覚えました。

平塚運一の木版画

平塚運一の木版画

平塚運一の木版画

平塚運一の木版画

平塚運一の木版画

平塚運一の木版画

帰り際、仁丹塔が有った辺りの、国際通りを後にしながら、何と無く、時の流れを感じさてくれた、東京浅草での木版画の買取でした。

買入れ本舗は東京台東区浅草周辺での古い物の買取が大好きです。どんなものでも一声かけてください。一所懸命買わせていただきます。

平塚運一[ウィキペディア]

1895年(明治28年)11月17日、島根県八束郡津田村(現松江市)に生まれた。島根県立松江商業学校に入学したが、1913年(大正2年)に中途退学し、松江市役所に勤務。石井柏亭の洋画講習会がきっかけとなり、1915年(大正4年)に上京してデッサンに励み、さらに版画技術を会得[1]。1916年(大正5年)には、二科展に版画作品が入選し、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。1917年(大正6年)に帰郷して結婚し、公立小学校の図画教員となった[1]。
1927年(昭和2年)から棟方志功らを指導し、1928年(昭和3年)には棟方や畦地梅太郎とともに雑誌『版』を創刊。1930年(昭和5年)には国画会の会員となった。1935年(昭和10年)には東京美術学校の版画教室開設にともなって教壇に立ち、1941年(昭和16年)からは日本女子高等学院や公立中学校でも教えた。1946年(昭和21年)には山根幹人(映画監督)らの協力を得て松江美術工芸研究所を開設した。1962年(昭和38年)には渡米して、活動拠点をワシントンD.C.に移し、アメリカ各地で個展を開くとともに版画の普及に努めた[1]。日本国内においても地方での版画普及活動に熱心であり、棟方、畦地、菊地隆知、北岡文雄など日本を代表する版画家を育てた。
1977年(昭和52年)には勲三等瑞宝章を受け、1989年(平成元年)には松江市名誉市民に推挙された[1]。長野県内の版画普及に携わった功績を称えられ、1991年には須坂市に須坂版画美術館・平塚運一版画美術館が開館した[2]。1997年(平成9年)11月18日、102歳で逝去した。